昭和51年07月11日 朝の御理解
御理解 第60節
「おかげは受け徳、受け勝ち。」
今朝からお夢を頂いた。善導寺の原昌一郎さんですね、洋服屋さんですが、大変肥えて太っておる、そして洋服を着よるけれども、その小さい時というかやせておる時の洋服だから、もう洋服が入らん、もうお腹はこんなに大きゅうなってから、まぁいうなら重役タイプの、ところが洋服はその以前のだもんですから、もうよくまぁ洋服が合わんでおる訳ですね、洋服がこもうなってしまっておる。ボタンも詰められない、様な状態のお夢を私は頂いた。
その後先にいろいろありましたけれども、なんか漠然としとりましたから、そこんところだけがはっきりしておる。今月の信心の焦点が「太くなろう」と言う事です。ですから本当にまぁ何でもの願い、それこそ現在教団でもまぁ名実ともに日本一の御比礼を受けておられる、泉尾教会の教会長先生のお言葉が、何でもの願いに立つという、だからどういうことでも、まぁ言うなら願って願って願い抜くという事でしょうけれども。
その何でもの願いという事はね、だからどういう例えば難儀な問題であっても、自分が嫌いな問題であっても、何でもいうならば頂き抜こうと言う事だと言う風に最近分からせて頂いて、まぁこの何でもの願いという事の素晴らしい事の様に感じさせて頂くのです。とりわけ今月のいわゆる太くなろうと、太くお育て頂こうと、という為にはやはり何でもの願いに立たなければなりません。私は今日のおかげは受け徳受け勝ちというのは、大きな受けものを持って来りゃ大きなおかげ、そういう事だと思うのです。
おかげは受け徳と言う事は。どんなにおかげは受け徳受け勝ちと言われても、小さい受けものしか持ってこずしておいて、沢山のおかげを頂こうなどという事は、もうねそれでは理屈には合わないです。だから大きな受けものを持って来れば、大きな受けものを一杯おかげをやるぞと仰る。百斤持っておるものには百斤のおかげをやるぞ、千斤持っておるものには千斤のおかげをやるぞと、成る程おかげは受け徳受け勝ちなんです。私はもう今日はこの事を頂いてから、もうそれに極まったと思うんです。
大きなおかげを願うならいよいよ持って大きな、いうならば受けものを作る以外にゃないです。だからそれを又かやして申しますとです、大きなおかげを頂かせて頂く為には、普通でいうならば、大きな難儀も平気で持てれる人になると言う事以外にないですね。大きなおかげの受けられる人は、大きな難儀も平気で持てれる、おかげという千斤のものが持てれる人にならば、また千斤の重みのある難儀も、又平気で持てれる人だと私は思うです。もし千斤のおかげを頂きながらです。
それこそ百斤のものでも、もうへとへとなる様なおかげであるともしするならば、それは本当のおかげじゃないです。だからこれはどうあっても大きなおかげを頂く為には、大きな心を頂かなきゃならない、太い心を頂かなきゃならない。まぁようあぁいう難儀の中にあってと人から見られる様であっても、ならそれを受けておる本人は平気でそれを持っておる、むしろその難儀が有り難く持てておるという、力を頂いて初めてそれだけのおかげが受けられると思うです。
もう一寸した事が気になって堪らん、もう一寸した事が腹の立って堪らん、それでね大きなおかげを下さいなんていって、そりゃもう絶対頂けないでしょうね。だから信心とはそういういうならればおかげの受けものを作る、修行であり又は教えの全てがです、そういうおかげの頂けれる道を教えによって示して下さるのです。だから教えはまぁ言うならば有り難くならせて、有り難くならせて頂くという事は、今申します様に本当に人が一つも有り難いと思いきらん事に、有り難いと思えれる人。
だからまた人が羨ましがる様な有り難いおかげを受けるのです。同んなじですよ。本当は有り難いとお礼を言わねばならん様な事に、不平を言う不足を言う腹が立つ、もうこれでおかげの頂ける筈がありません。まぁ私は今日のこのまぁいろいろの角度から、いろいろに頂きましたけれども、今日はもうその事に極まったと。おかげは受け徳受け勝ちというのは、百斤持てる者には百斤やるぞ、千斤持てる者には千斤やるぞと。そこでですなら私が今朝からお夢を頂いとります様に。
昌一郎さんがなら、例えば今月の焦点に本気で取り組んで、まぁ太くなったと致しましょうか、今までの洋服が着れんごとなった、洋服屋さんですから自分で洋服は作られます。だからやはり自分のスタイルというか、自分の体にピッタリ合う洋服を、自分で作らなければならないと言う事になります。だからおかげの受けものはね、自分で作らなければ駄目なんです。皆さんもみんな洋服屋にならにゃいかんという事です。ところがお腹はこんなに大きくなっとる。
ところが洋服はチンチクリンで、おかしゅうて堪えんごたる洋服を、いつまでも着とる様な事であろう葉ずはないのに、そうであるとするならば自分のお腹が大きゅうなってるのは、ほんなこつしじゃないと思わないかんです。もうおかげを頂いてこの頃いっちょん腹ん立たんごとなったとか、もう何でもそのう有り難く頂きよると例えば言うてもですよ、形がそれに添わなかったら伴なわなかったらです。それはあなたの方がおかしいですよという事になりますよ。
自分の宣伝、いうならば信心が出来た積りであっても、おかげが伴わないならばそれはおかしいです。いかにも信心が巧者な様であってもです、受けものが出来ていないならばです、それは出来取るとは言えません、知っとるちいうだけの事です。もう極言ですけれどもね、自分はお腹が信心によって大きゅうなったと思うとるけれども、大きなそれにピッタリした洋服が着れていないとするならば、そりゃあなたんとは腸満か何かじゃあるめえという事になる訳です。
腹ばっかり膨れとる病的だと言う事になるんです。大変信心が出来た様に例えば申しましても、心の中に言うならば有り難いものもなからなければ、おかげも伴わないとするならね、それは一つ自分の信心のほんなもんじゃない、いわゆる病的で体がねいうならばそれは肥え取るのではなくて、腫れとるのだと思わにゃいかんです。だから先ずその病気を治さにゃいかんです。いうなら改まるところを改まらにゃいかんです。
だから一遍に大きくなられると言う事はないのですけれども、本気で一つ何でもの願いに立たせてもらう、そこに例えばより好みをしないで何でもなら頂く、有り難い事も頂く、頂くならば苦しい事も嫌な事も、やはりそれを頂いてこそ、それが滋養になり力になるのです。そういう風にしていよいよおかげの受けものが大きくなってくる、それに大きなおかげが頂けるもう約束される訳です。自分の心の中を一つ見極めさせてもろうて、だからもう限りないおかげの頂けれる、一つ信心を頂きたい。
それにはもう限りなく神様の御働きを、そのままに受けて受け抜かせて頂くという決心が出来て行くところに、限りないおかげをまた約束される訳です。今日の御理解はもう簡単で、そしてもう絶対のものおかげは受け徳受け勝ち、という事は自分の思うもんな何でんかんでん持って帰られると、いう事の様な風に頂きますけれども、それを持てれる力と言う事です。百斤持てれる者には百斤、それが千斤のものを願っても、それは無理な話。千斤欲しいなら千斤持てれる力を、先ず頂かなければいけません。
私はこの六十節はそう言う事だと言う風に今日は頂きました。今日私がお夢の中で頂く昌一郎さんの、あのまぁ太っておるけれども洋服は昔のままだからおかしい、自分で縫えるのだから、自分で自分の体にピッタリ合うとを作ればよい縫えばよい。自分にピッタリ合うものは、自分で作らなければならない。自分で作るというところに精進がある、努力がある。百斤のおかげを頂きたいなら、百斤の修行も又しなければならない。
百斤の苦しい修行も、楽に持たれるおかげを頂いた時に、百斤の有り難いおかげが頂けるという事になります。おかげは受け徳受け勝ち。もうここに極まるのですから、自分の受けもののお粗末である事を気が付いたらそれをも少し、先日私はある方のお願いをさせてもらいよった。もう切実に願いが願いとしてお届けになりますから、お願いさして貰いよりましたら、あれはあのう何というんでしょうかね。
あのねじを締めると何て言うですかね。スパナちゃこう自由自在するとじゃろ、持ち運びの何ちいうのこげなん形をした後ろ前こうね、そのところがこげなん風にしとっとが、こげなん風に広がっとるじゃん、だからそのねじに合うまでたい、これをまちっと締めにゃいけんという事、もちっとこれを例えばそういう大きなおかげを願うならばです、こういう大きないわばねじが緩んどったんでは、おかげを頂かれんです。自分の信心のねじばキュッと締め上げといて願わなきゃならんという事です。
いうなら信心がしみじみと本当に大きなおかげを願うには、願うに相応しい修行と喜びというものがそれに伴うとわなければ、そういうおかげが頂けるはずはないという事です。だから自分の心の、もうそれこそ大きいねじでもこまいねじでも、キュッといわば締まっておって、そこから何でもの願いに立たしてもろうてね、初めておかげは受け徳受け勝ちというおかげが頂ける訳です。ただ有り難い事だけを、わが良かごつもって行けというのじゃ決してないです。そうだったら嘘になりますこの御教えは。
おかげは受け徳受け勝ちというのは、いうならば自分の有り難い、真に有り難いと思うその心と同等なおかげが頂けるのですから、有り難くなれらなきゃならんと言う事になります。大きなおかげを頂きたいならば、大きな受けものを持ってこなければ、持って帰られないでしょう。自分のいわば受けものをいよいよ検討さしてもろうて、神様が本当にもうなんぼでもおかげを下さろうとしておる、そのおかげを頂き止めた時に、私共の有り難い神様も喜んで下さる。
もうそげんうんとおかげはやらんと仰る様な神様じゃない、もう限りなく下さる、だから限りなく大きくならせて頂く太らせらて頂く、その精進がいよいよでけなきゃならんと言う事になります。そして自分の心を一つ本当に見て見る事です。これではおかげは受けられんというものをそこに発見したならば、それを改めて行くなり、それをもっと確かなものにしていく精進を先にしなければいけないという事になります。
どうぞ。